(批判を受けずに一方的に)物が言える社会がお望みなんでしょ?お偉い新聞記者様とか文化人様は
— 各務原 夕@魔眼蒐集猫車 (@nekoguruma) August 17, 2019
発言に責任が伴うし、言ったことへの批判は出るのは普通であるって部分が彼等は欠けているので。
— moltoke◆Rumia1p (@moltoke_Rumia1p) August 17, 2019
インターネットの普及によって個人ベースでの情報の配信が容易になり、個人間の情報のやり取りや蓄積、検索や検証が容易になったことで、情報の質は大きな変化を遂げた。情報の流れもかつてはピラミッド型構造だったのが、今では(まだピラミッド型構造が残っている部分もあるし影響力も否定できないけど)多方向型に変わりつつある。
で、新聞記者などにとってはピラミッド型構造の時代の常識や権限、恩恵を受けている状態こそが「モノが言える社会」なんだろうなと考えると、道理が通るというか納得がいく。そのような状態なら発信する側は滅多なことでは責任を負わなくて済むからね。その方が楽ではあるのだし。
結局は【「言いたい事が言えない」と言いたい事を言っている】と同じで、言いたいことを一方的に言わせろ、何も文句を言うなということなんだろう。というか新聞報道ってそういうものだったのか、と考えると、色々と頭痛がしてきたりする。
「発言の責任は取らなくてもいい、批判はまかりならぬ。それが『報道』ってもんでしょ?」と思っているのだろう。新聞記者の公式アカウントのツイートを読むだけでも、そのような考えが多分に支配していることは、容易に把握できる。
要は自分達は特権階級で、今まで縦横無尽に使っていた特権をそのまま有効にさせ続けろということ。
私が思うに、メディアとは、単なる情報の伝達媒体に過ぎない。
— 平野昌功 (@masanori_uke) August 31, 2019
情報を勝手に書き換えたり、事実と異なるものを平然と配信した時点で、それはメディアでもなんでもない。そして、権力の監視や批判をするのは、メディアが媒介した情報を受け取る人々の役割である。媒体は余計なことをしなくて良い。 https://t.co/RgH3lFXcAa
昔も今もメディアは情報の伝達媒体、インフラでしかない。そのインフラが携わる者の思惑で内容を変えられたり、フェイクを混ぜられては困るよというもの。
例えるなら水道みたいなもので、安全な品質の水道水を常に一定に流してくれることを求められているのに、水道局の人が「自分はオレンジジュースが好きだから皆も好きになるべきだ」と勝手にオレンジジュースの粉を混ぜたり、健康にいいからとEM菌を混ぜたり、怪しげな水道管に繋ぎ変えたりしたらアウトだよね、というもの。そういうことをしたいのなら、それ専用の供給管を自分で作って求める人に提供すればいいだけの話なんだよね。
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