英訳することも和訳することも英語をしゃべることも英語を聞くこともそれらの能力が生きている間に不要になると思ってます。その場合言語ってどういうものになっていくのか興味があります。
— VTF-INO (@v_ino) September 7, 2019
以前も紹介した翻訳専門業による翻訳が必要なレベルの文章は今後も多分に存在するし、そういう技術を持つ人の重要性はむしろ高まるとは思うのだけど、一方で昨今の翻訳技術の進歩は、今後のさらなる精度の向上を期待させるのには十分なものとなっている。
それこそSF映画に出てくるような、インカムのようなスタイルで構成されていて、かけるだけで言語の異なる相手とごく普通にやり取りができる、多少の言葉の入れ違いも即時に学習していく、なんていうものにたどり着けるかもしれない。この技術があれば、あとはARと組み合わせるだけで目に見える他国言語も自国言語に転換して表示させるってことも容易にできるようになる(現状でも似たようなものはあるけど、まだ精度は今二つ)。
ではもしそういうレベルにまで達したら、言語ってどういう概念になっていくのだろうか。
翻訳の類が日常会話を何不自由なくできるようなレベルに達しても、地域ごとに使われている言語そのものが無くなるわけでは無いし、他の言語に侵略されるわけでもない。けれど確実に言語のハードルは取り除かれている、せいぜいふすまのへりぐらいのハードルになっている。確実に距離感は縮まるだろう。
けれど言語のハードルが取り除かれても地域の特性や習慣まで均一化されるわけでは無いから、意思の齟齬が生じるようになる。自分の言語帯では当たり前だと思って語ってみたら相手においては非常識、恥ずかしいことだったりとか、歴史的に逆切れさせるような内容かもしれない。
その辺りを考えると、言語のハードルが完全に近い形で取り除かれるのも良かれ悪しかれだな、と思ったりはする。現状でもインターネットの普及でそれに近い形にはなっているけど。そして言葉がすべて一致するような感覚でコミュニケーションできるのなら、バベルの塔が壊される前のような状態にならないかな、という妄想も頭に浮かんだりするのだな。
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