若い頃にイタリアに留学してた話をちょいちょい見るけど、「イタリアで学んで耽溺した現地の芸術と比較して、現代日本の漫画の技法で描かれたキャラクターは、【目の芝居(眉の上げ下げ、瞼の開閉)や口の芝居(の形)、頬の芝居(紅潮の有無)】で感情表現する点が全く異なるのが、受け入れられないと
— 加藤AZUKI@「忌」怖い話卒哭怪談 (@azukiglg) October 30, 2019
で、そういった「自分自身の成功体験の根幹にあるものを肯定する」ために、「自分と異なる形で隆盛を極めているものを否定」しないと、自分のアイデンティティが【崇高なものにはならなくなる】から、「自分のチョイスを高めるために自分と異なる手法の成功を貶める」しかないわけか。
— 加藤AZUKI@「忌」怖い話卒哭怪談 (@azukiglg) October 30, 2019
人間は経験を糧にして成長していく生き物で、自信の創生にもつながる成功体験は必要不可欠なもの。些細な事でも上手く行ったというポジティブな経験を持つことで、次の機会に活かせるし、モチベーションそのものも上がっていく。
けれどその成功体験に固執してしまうと、それ以降の行動や判断の正しさの観点で、足を引っ張ることになりかねない。いつしかその過去における成功体験を大切にするがために、現状の認識がゆがんでしまうことになるかもしれない。
たとえそれが自分にとってかけがえのない宝物的存在の成功体験だったとしても、それはその時、その環境時におけるものであり、時間が流れ、環境が変化すれば、それが永続的に続く絶対法則とはならないことに気が付く必要がある。いわゆるアップデートをしなきゃならないってわけだ。以前の腹痛の時には横になって寝ていれば治ったから今回もそうしようってことで特に何もしないで休んでいたら、実は盲腸だった、なんてこともあるわけだな。
このアップデートをするという概念を受け入れ、逐次実施をしていかないと、その人は単なる道化師と化してしまう。令和の時代になって未だにちょんまげをして紋付き袴、さらには帯刀で駅前を歩くようなモノ。まぁ、すぐに職務質問を受けるようなことになるだろう。
自分の成功体験にある本筋的な概念をいつまでも肯定し続けるのは、それを否定してしまうと、自分自身のこれまでの存在そのものを否定しかねないというのは理解できる。けれどそれはアップデートをしていない本人の責任。昔100円だった自販機の缶コーヒーを覚えていても、今でも100円で買えなきゃおかしいと逆切れするようなもの。
天動説で高名を馳せた人は地動説を肯定しないどころか拒絶する。自分の価値観を否定する地動説を認めると、自分が否定されるから......的な感じかな。これ、老が、もといロートルな方々によくある傾向で、そして人口構成比上高齢者比率が高い日本でとりわけ社会をゆがませるポイントではある。この辺は以前も言及した気がする。高齢者の人口構成比と財務省とマスコミ、これが日本の社会をゆがませている根本原因だと。
この考えに基づいて考え直してみると、「OSなんて別に変えなくてもいいじゃん」「マクロ組んで最適化など許さぬ。全部手打ちで検算しろ」「PTAは絶対正義」「人間ピラミッドは有意義な競技」などというお話も多分に、これに該当するのかな、ということが分かってくる。困った話ではあるのだけど。
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