某社のゲラを見ていたら「犬にも劣る」という悪罵に「愛犬家は悲しくなりそう」と鉛筆が入っていた。キレそうになった。
— 篠田真由美 (@MayumiShinoda11) November 7, 2019
ルネッサンスのフィレンツェが「革染めで臭い」と書いたら、部落差別を連想させるから直せといわれた。「四つ足の動物」もダメだった。切り裂きジャックで「屠殺」はもちろんダメ。「屠る」は辛うじて通った。「外人墓地」は「外国人墓地」にしろ、これはわりと最近の改編。
— 篠田真由美 (@MayumiShinoda11) November 8, 2019
校正とか校閲の類は、文章そのものの表記ミスや誤変換などを指摘して正しいものに差し替えたり、こうした方が好ましい的な指摘をしてくれる...のだけど、原則的には言う通りにしろという押し付け的な意味合いを持つ場合もある。
その指摘が単なるミスとか常識の上での間違いならばなるほどそうかありがとうで済むのだけど、文章の意図を読み間違えていたりそもそも日本語の解釈が怪しいものだったり、さらには校正をする側の思想や理念を押し付けてきたり、お気持ちマフィア的な思惑を校正の立場で強要してくると、それってどうなんだろうという反発を抱くのも不思議ではない。そういうお気持ちがあることは理解しているけど、文脈とか見ろよとか、その対象に当方自身も含まれているけどそんな思いはまったくないんだけどな、とか。
この類の話って昔は個々のやり取りでクローズなものが多く、他人の目に触れることはなかったのだけど、SNSの普及でみんなやられていることじゃん、ってのが分かるようになった次第。
これって一種の表現統制とか思想統制の類じゃないかな、という気すらするのだけど。基準そのものとその基準の正当性、その正当性を担保するものを明示しないと、やりたい放題だよねえ。
登場人物のセリフに罵詈雑言があるのは、そのキャラを表現するために必要なのであって、作者の気持ちじゃねえんだよ、って叫んじゃいそう。
— kuri【伝奇SF「不死の宴」ぺーパーバック版登場!】 (@hajime_kuri) November 8, 2019
登場人物のセリフにいちいちフィルタがかかるのもどうなんだろうという感はあるし、そのセリフが作者自身の思想自身でないというのも分かるはずなんだけど、それでもチェックが入るのも変な話ではある。創作物に登場する人物は、すべてがすべておしとやかで丁寧な言葉遣いをする人でないといけないということになったら、狂気の沙汰でしかないのだけどな。
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