仮に仕事にやりがいがあるとしても、それは「適切な勤務時間、適切な給料、適切なストレス」という前提が満たされたうえで追加されるべきであって、やりがいを理由に前提を犠牲にしてよいことにはならない。
— 大貫剛 (@ohnuki_tsuyoshi) November 26, 2019
で、個人事業主はやりがいを求めて他のことを犠牲にしてるわけだが、それは我々は被雇用者ではなく経営者だからなんですよ。経営者は自己責任でそれをやっていいけど、それを前提にして雇用しちゃいけない。
— 大貫剛 (@ohnuki_tsuyoshi) November 26, 2019
なのに、経営者が高い役員報酬を得て、労働者に劣悪な労働環境を与えて「やりがい」でごまかす。逆ですよ逆。自分の考えで経営できるんだから「やりがい」あるでしょ。だったら給料要らないでしょ。
— 大貫剛 (@ohnuki_tsuyoshi) November 26, 2019
例のオリンピックの動員的ボランティアの件が顕著ではあるけど、いわゆる綺麗ごとという形にないものをお金の代替品としていくらでも創生して、それでリソースを値切っているというか誤魔化している例が多々見受けられる。そういうことをしているから、どんどんひずみが出てきてしまう。
指摘されている通り、個人事業主による仕事の場合は、自身が経営者だからこそ、自分でその見えないものを手に入れるために、目に見えるものを犠牲にしている、いわば自己責任の問題だったりする。けれどそれを他人に押し付ける構図ってのは、理にかなっていない。
第一やりがいとかいった精神的なものは、あくまでもプラスαの要素であり、ベースなものにはなりえない。いくら調味料がよいものでも、基本となる肉が腐っているレベルのものでは美味しくなることはないのと同じ。あるいは太平洋戦争時の「精神力で兵器の性能差や物量は凌駕できる」という戯言と変わらない。
「断らざるを得ない」事実を認めないと、改善のための議論がまったく進まないからね>RT
— KGN (@KGN_works) November 26, 2019
「日本で、十分な救急医療はこれまで一度も供給されてない」
も事実だよ。
首都圏にいるつもりで、田舎の救急隊&救急病院相手にゴネる人珍しくないけど、『権利を振りかざしてゴネても、無いものは無い』。
そもそも論として、「もう無理」になってる医者を「そんな事をお医者が言って、本当に必要な人が受診を控えたらどうすんだ!」と責めるのはお門違い。
— KGN (@KGN_works) November 26, 2019
自治体や厚労省に「診療報酬上げろ」「医者増やせ」と言わない限り、何も変わらない。
末端には死ぬか辞めるか以外の選択肢がないんですよ。
医療や介護方面では特にこの類の話が出てくる。医の志とか社会的貢献とかいうのを振り回して、現場に隷属を強要させるという構図がおかしいと判断できない方がおかしいんだよね。
やりがいとか社会的貢献とか●×の志というフレーズを悪用した結果、問題となっているのが先に挙げた医療や介護、ボランティアという名のタダ働きであり、しいては人材の買い叩きの正当化なのですよね。これを解決すれば経済はもっと良くなる。スットコな経営陣にはご退場願いたいところ。 pic.twitter.com/WrK1x0w7Ka
— 不破雷蔵@ガベージニュース (@Fuwarin) November 26, 2019
1ツイートでまとめるとイメージカットも合わせ、こんな感じ。医療にしても介護にしても、単純に現場が受け取る給与を、労働に即した適正な額に引き上げればある程度の問題は解決する(人手不足ですらも)のだけど、「受ける側の負担ガー」「医の志ガー」「万人へのサービス提供ガー」とお騒ぎなされる方々の声が大きくて、ねえ...という感。
受ける側のお気持ちは大切だけど、そのために与える側の気持ち・実情を蹂躙してもいいのか、ということなんだよね。「腹が減ったからタダで食わせろ」とレストランで食い逃げするような状態。あるいは万引きや違法コピーの正当化。例の漫画村事案でも、買えないから、売っていないからタダで読めるようにしろ、それを実現させているあの場は正義だ、正しい存在だとする意見があったのは事実。今件はその声が肥大化したような状況なんだろう。そういや例のマジコン騒動でも似たような印象があったな、と。
つまるところ、例のお気持ちマフィアの力が強くなっているのが問題なのだろう。
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