問題を議論する時に余計な感情を上乗せするのって邪魔なノイズだし文字数制限されてる時など重要な情報が削られるし、なんでこういう人いるかな、って思ったけど、あれ日常会話の感覚なんだろうなと気づいた。問題解決を話し合うための会話は別の方式が必要という概念がない。狭い世界で生きてる人。
— 山本貴嗣 (@atsuji_yamamoto) December 7, 2019
自分のうっぷんをはらす、とか、相手を感情的に凹ませるとか、問題解決とは関係ない目的で話してる。そんな話などしていない人とは、かみ合わなくて当然。
— 山本貴嗣 (@atsuji_yamamoto) December 7, 2019
感情というのは得てして発する側の内面を体現化したもので、第三者にそのままの形で伝わることは滅多にない。何らかの抽象化、比喩化されたものとなり、場合によってはよじ曲げられて受け止めてしまう。基準が曖昧なものだから、意思伝達、情報伝播の上では都合が悪い。
しかも感情を盛り込むとその分余計な情報になる。混ぜ物が入った形になるからね。普段の雑談ではむしろそういうエッセンスが入った方がいいことも多いのだろうけど、情報そのものが欲しい時とか、ビジネスライクなやり取りをする時には必要が無い。精々笑いを取る時ぐらいか。
議論の時に感情を含めた情報を加えるのは、交渉術とかテクニックと言われることもあるけど、それは本質とはかけ離れたものなので、いつか化けの皮がはがれるし、はがれた時の反動も大きい。見方を変えれば本質部分で勝負ができないから、そういう小手先の部分で盛り返そうとするのだろうけど。
報道記事もまた然り。以前言及した記憶があるけど、本文、ましてや記事タイトルに感情表現の言い回しがあったら、それはほぼ確定的に書き手側の思惑というノイズが入っている。そのまま読むと、書き手のかじ取りに誘導されて情報を認識してしまう。小説を読んでいるのならともかく、報道においてはそれは必要無い。要注意ではある。
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