自分たちは権力に対峙する存在だと自己定義している新聞記者が、しばしばこういう勘違いを起こすんですよね。
— さつまいものニョッキ@常夏島 (@potato_gnocchi) February 9, 2020
その権力への対峙ってのは、マスコミ企業という権力主体が、それ以前の権力主体である国家権力や大企業を相手とした下心あふれる権力闘争なんだけど、兵隊である記者はそれを理解してない。 https://t.co/abIYYyXZGv
東京新聞は「事実」より「政権に対する姿勢」が大事と明言しちゃった。いや、前からそうだとみんな知ってはいたが(笑)、仮にもマスコミとしてなかなか大胆なご発言。 https://t.co/B4gisUaMhY
— カラサワ (@cxp02120) February 8, 2020
東京新聞、もうハッキリ 「ファクトに基づいた報道よりプロパガンダ打ちます」 と言ったのでこれからは完全に社会悪として扱って良いし個人としてそう扱おうと思う。 食い扶持潰されて追い詰められても最後は泣いて土下座して命乞いすりゃ済むと思うなよアホンダラ。 >RT
— 内海 (@u23mjag) February 9, 2020
報道とかジャーナリズムは体制や社会を監視して批判するのが存在意義だとする声もあるけれど、それはあくまでも体制や社会側が民衆にネガティブな影響を与え、その事実を意図的に隠ぺいし、影響を与え続けようとするからというのが大義名分というか前提にある。つまり報道やジャーナリズムの行為が正当化されるのは、事実を明らかにするのが民衆にプラスとなる行為だから。報道という仕事の存続のためにとか、ましてや報道内の思惑とは関係が無い。まずは何よりも、事実を明らかにするというのが何よりも大事。根本。
ところが今件では指摘されている通り、事実よりも自分達の立ち位置を大事だとしたり、思惑こそが存在意義で、それを主張するのが絶対正義だとしてしまっている。思いっきりぶっちゃけているけど、 「ファクトに基づいた報道よりプロパガンダ打ちます」 という表現はいい得て妙でしかない。それはすでに新聞ではなく報道でも無く、活動家の機関紙でしかない。
デマだったときに責任放棄を重ねるから叩かれてるんだよ。
— ろんたい (@ryuta87016) February 8, 2020
酔っ払った様なこといってんじゃない。ジャーナリズムとやらは、免罪符じゃないよ。 https://t.co/h9FRZELdoF
事実に基づいた疑惑追及とデマは全く違いますよ。
— 俊鹿 (@IqTlgtSdfi0HaYF) February 8, 2020
ジャーナリストを名乗るなら、疑惑の証拠を掴むこと。印象操作だけならネット民でも出来る。
同じような流れがほぼ同時期に別の報道関係なところからも出てきたりする。報道に、ジャーナリズムに求められているのは「事実」。ただそれだけ。書き手、伝え手側のお気持ちなど不要なのだけどね。
この類の公言を、そういう意見を好む人たち向けの客寄せパンダとしているから、誰も止められないという意見もある。けれどそれを肯定してしまったら、報道組織そのものが同一意見を持っていると認識されても仕方が無い。そしてそれは報道そのものの存在意義の否定と同義となりかねないのだな。
ジャーナリズムが何でも許される免罪符と勘違いしている人達が報道界隈に多すぎて、しかも自浄作用が働いていないのが、報道の質の問題の大きな要因の一つではないかなと思うのだけど。
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