80年代辺りから「わかりやすさ」と「おもしろさ」に価値の重きを置いてきた結果が現在のていたらくであって、そのカルチャーをまともに浴びて育ってきた私たち世代のライターができることは、一見「わかりづらい」「おもしろくない」ことの必要性や本義をコツコツと伝えていくことぐらいかなあ、と。
— 門賀美央子 (@mongamioko) May 12, 2020
真面目に話している人をおちょくる、真剣に物事に向き合おうとしている人を軽く扱おうとするのは小学校高学年男子マインドだと思うんだけど、そこから卒業できないまま大人になるのは恥ずかしいっていう当たり前のことが共有されなくなったのが80年代かしら。どっちにしても単なる逃げなんですけど。
— 門賀美央子 (@mongamioko) May 12, 2020
分かりやすいってのは自分が理解しやすいということ。そして面白いってのは自分が習得したいと思いやすくなるもの。要は自分が納得できるようなものが価値あるものだという認識。そしてそれがネタ話であることを自認していない限り、分かりやすく面白いものは正しいと判断してしまうことになる。
分かりやすい、面白いものに価値の重きを置くってのは間違ってはいないし、今のスマホによるつまみ食い時代の中ではその動きがますます強いものとなっていくであろうことも否めない。ただその一方で、それに反するもの、つまり分かりにくいものとか面白くないものを価値が無いもの、正しくないものとして区分したり、さらには馬鹿にしたり否定するのは、そういうことをする人自身の価値がないと自称していることになるのではないかな、と思ったりもする。それを知らずしてやっている人が多分にいるのが実情なのだろうけど。
まぁ、難しく考えるのが面倒くさいので、だったらそれを否定できる方程式を掲げれば面倒が無くていいよな、と考えるのは理解できるけど。それってかむのは面倒だからドリンクしか飲まない、おかゆしか食べないというのとどれほどの違いがあるのだろうか。
さらに昨今では、面白ければ、分かりやすければ、間違ってもいいとか、さらには間違っていても面白ければ、分かりやすければ受け入れられるから出まかせをそのように演出して広めてしまおうという動きが少なからず見受けられる。いや、昔からその類の話はあったのかもしれないけど。
あまりよい状況ではないよねえ。すべてをエンタメ化してしまうってのは、さ。
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