米国の暴動を見るに、「正義の行動」に免罪符を与えることの怖さを改めて認識させられる次第。
— 不破雷蔵@ガベージニュース (@Fuwarin) June 1, 2020
「氷室の天地」でも「人が最も残虐になるときは『悪に染まった』ときではない。真偽どうあれ『正義の側に立った』と思ったときに人は加虐のブレーキが壊れる」という有名な言い回しが出てくるけど、昨今の米国での暴動騒動を見るに、多分にタイトルにあるように、正義の行動と自称されるものへ免罪符を与えてはいけないなと思う次第。
何しろ正義というものは絶対的な評価ではなく、往々にして主張する人による主観で基準軸が定められる。そしてその基準軸で一般社会におけるあれこれの取り決めや常識を無視しても、蹂躙しても問題が無いという免罪符を勝手発行してしまう。「これは悪いことかもしれないが、俺様の正義のためには、些細な犠牲にすぎないんだ」的な......ってあれだな、物語でもよく出てくる言い回し。
これってちょっと見方を変えれば、いわゆる「お気持ち棍棒」を振り回す存在と同じだと考えることができる。自分達のお気持ちで定めた正義を絶対視し、世間一般のルールや法律すらも蹂躙することができると判断しているわけだからね。そのような考えがどういう結果となるのか、その一端があの暴動に表れているのではないかな、と。
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