兵器の購入について「爆買い」と表現している記事は全て内容は間違いと見做していいですね。煽り目的で事実と違う事を書いてる時点で正しくなるわけがないです。今までまともな記事を見たことがない。
— JSF (@rockfish31) June 28, 2020
「不気味」かどうかなど完全に主観で報道記事としては無用な単語だと思います。軽薄なバラエティ番組でただの景色に勝手な演出音楽をかけるのと同じ。事実のみを伝えて何を感じるかはお客にまかせてもらいたい。 https://t.co/J3g2HWk1nX
— 山本貴嗣 (@atsuji_yamamoto) June 28, 2020
似たような話はこれまでに何度となく切り口を変えて紹介解説しているけれど、世の中からこれらの悪癖が消えることはなく、むしろ増えている感はある。引用元で指摘されている通り、論説やゴシップ記事などならともかく、報道記事の題名で感情表現を使うのは、それだけで記事としては失格なので、評価する価値もなく読むだけ時間の無駄と断じてもいい。事実を伝えるが報道なのであり、書き手などのお気持ちや思惑を混ぜる必要はない。
感情表現を使うのは「インパクトがあるので集客しやすい」「書き手のお気持ち表現をアピールしやすい」という理由からなのだろう。実際、編集や出版関係の人達も、しきりのこの類の表記方法をテクニックだのコツだのノウハウだのとして薦めてくる。その方が目立つ、アクセスが稼げる、注目してもらえる。
けれど報道記事としては不必要どころか邪魔、弊害でしかない。そもそも報道記事と論説やらプロパガンダとの境界線、理解してるかな? プレスとオピニオンは別物だ。
雑な例えだけど、Facebookではお馴染みの「スリル満点なパズルゲームの広告だけどゲームそのものは別物」とかちょっと前にウェブやツイッター上の広告で問題視された「R18的な要素満点のビジュアルの広告だけどゲームそのものは別物」と同じ方向性のものでしかない。
報道機関の使い古された言いまわし、としては、子どもが犯人逮捕に大きく協力したとき「ちびっこ探偵お手がら」という見出しが昭和の頃はよく使われてましたが、最後に見たのはいつだったでしょうか。さすがに平成ではもうなかったか、最初のころはあったのか、もう昔過ぎて思い出せません。
— 山本貴嗣 (@atsuji_yamamoto) June 28, 2020
まあ、勝手な「感情」を付け加えるのは一部の報道機関の常套手段と思えばいいのかもですが(たとえば「被害者の遺族は怒りをかみしめていました」とか。記者は超能力者でしょうか。もしかしたら喜びをかみしめていたかもしれません)。淡々と事実のみを伝えて欲しいものです。
— 山本貴嗣 (@atsuji_yamamoto) June 28, 2020
報道に求められているものは事実、公明正大な観点での情報。書き手のお気持ちやら意図やらは不必要。盛り込みたい思惑、気持ちは分からないでもないけど、要らないものを混ぜられて本旨が歪んでしまっては何の意味もない。普通のカレーライスを食べに来たのに、料理人が「自分は好きだから」「こういうものが流行っているらしいから」と勝手に納豆を乗せられたりワカメを混ぜられるようなものだ。
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