個人的には「まともな言葉遣いもできない人間が、まともなことを考えられるわけがない」と思いますけどね。
— 藤栄道彦 (@michihikofujiei) July 14, 2020
「保育園落ちた日本死ね」とか。
つるの氏の言ってることが正しいです。
記事の最後にゴミみたいなコメントが並んでるけど、賛同した人も多いんじゃないのかな。
せめて「保育園落ちた何とかしてくださいよ日本」だったら、多少は同情されただろうと思いますね。
— 半魚人 (@kattenayatura33) July 14, 2020
「死ね日本」というのは、あまりにもやけっぱちになってる官が否めません。
「死ね」という言い方をしたから行政は動いたんだ・改善されたんだという人もいますが、手段が間違ってたら結果も間違った行為になるんですけどね。
— 藤栄道彦 (@michihikofujiei) July 14, 2020
ソーシャルメディアの利用ハードルの低さもあり、他人との意思疎通、アプローチが非常に容易になったことから、コミュニケーションの際の礼儀作法というかマナーというか常識というものが、あまり認識されなくなっている感はある(無論、例のマナー講師のような無茶苦茶な話を主張するわけではない)。冷静になって考えればすぐに理解はできると思うのだけど、自分とあまりどころか全く面識がない人に対し、突然フランクな、さらには乱暴な言い回しで語りかけたら、相手はどんな印象を抱くだろうか。街中で突然見知らぬ人から「ザッケンナーゴルァ!」とドヤされたら、おびえるか怖くて逃げだすか、警察を呼ぶだろう。少なくともまともな人であるとの認識はできるはずがない。
ところがソーシャルメディアだと、その「ザッケンナーゴルァ!」を平気でやらかす人が少なからずいる。当人がその認識を持ってすらいない可能性も多々ある。かわいそうではあるけど、そのような人は多分に、まともな考えができないレベルになってしまっているのだろう。これは特定の相手に向ける言葉だけでなく、不特定多数の目に触れる可能性がある、そのような意図で発せられた言葉でも同じこと。
指摘もされている、例の「保育園落ちた日本死ね」一つとっても、マスコミや関連業界人の少なからずは「正しいことを言っているんだから問題ない」「アピールするためには強い言葉が必要だから許される」的な擁護肯定をしていたけど、詭弁でしかないというのが当方の感想だった。それって子供に暴力をふるった親が「しつけだから仕方がない」と自己弁護するのとどれほどの違いがあるのだろうか。
いずれにせよ、不特定多数の目に触れることが前提の言葉には、発した人の本質が現れる。発する側はもちろん、受け止める側も、それを自覚しなきゃならない。そう難しい話ではないはずなんだけどな。
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