「ドッキリ」と嫌がらせの境界線

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あえてネタの大元の話は引用しないけど。知人の車の中にチューブで水をまき散らすというものがあり、それに関するお話として色々と納得ができるものだったので。

テレビ番組でも一時期流行った「ドッキリ」ってのは、結局のところネタ晴らしをされた時に、された当人も見ている人もああ驚いたと胸をなでおろすようなものじゃなくてはいけない。驚かされたよ、でも安心した、までがセット。相手を驚かせた状況がそのままで、「これはドッキリでした」といわれてオシマイなら、驚かされた方はその状況が回復しないままになり、やられ損となる。見知らぬ人に突然殴られたり貴重品を奪われて壊されたあとで、「これはドッキリでした」と言われてそれでオシマイ、さようならと立ち去られるのがアリならば、どのような犯罪でも許容化される。そんなバカなことはない。

まるで「ドッキリ」が世の中を茶化す、何か突拍子もない悪い事をする行為への免罪符になっている、そう強要しているような気がする。

......ここまで書いて既視感があったのだけど、この「ドッキリを免罪符にしてしまう考え方」って、一部のユーチューバーの暴走に近しいというか根本原理は同じ気がする。ユーチューバーだから色々やったって視聴者が面白がる行為なのだから別にいいじゃん、的な。そしてそこからさらにたどると、報道界隈の傍若無人にもつながるような。報道だから何をやってもいい、どのような不義理も理不尽な行為も反社会的なものも許される、というもの。

心の中に免罪符を作ると、人は悪魔にでもなれる。怖い話ではある。

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このページは、不破雷蔵が2020年9月 3日 07:39に書いた記事です。

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