コンビニ弁当に過剰な夢とか真心とかいらないのである。全国の店舗に、必要な品質、必要な個数が毎日きちんと並ぶ。システムとして維持され、消費される。そこにこそ意味がある。客だって満足している。なぜエンターテイメントがいつまでもそうならないと思うのか。
— ゾルゲ市蔵 (@zolge1) September 9, 2020
コンビニ弁当に夢など要らぬと全否定してしまうと、それはそれで夢も希望もありゃしないということで悲しみを覚えてしまうけど、確かに現状ではコンビニ弁当ってのは総菜も合わせ、少なからぬ人には日常生活上のインフラと化していて、配食センターみたいなポジションに位置付けている人も少なくないはず。
そういうポジションにある存在としては、「過剰な」夢とか思いのたけを語る云々よりも、安定供給が優先課題となる。日常の、平穏無事な環境がいつでも用意されている、それこそがコンビニ弁当などの意義に違いない。例えば去年秋の台風の時とか、震災の時に生じた、コンビニ弁当とか総菜コーナーとかパンの棚から品物が消えてしまって補充がされないような状況を見た時、単に品物が無い実情以上のショックを受けた人も多いはずだ。日常が壊れてしまったという現実が目の前に広がっているのだから。
無論、日常の消耗品的な存在にも、夢や希望や真心の類はあってかまわない。ただ、それが最優先課題でないのもまた事実。少なくとも、すべてのコンビニ弁当にそれが求められているわけではない。
ひるがえって指摘されている、エンタメはどうだろうか。すべての分野のエンタメがそうとは限らないが、一部ではそれに近い減少が生じていると考えている。例えば映像(動画)、例えば音楽。ネットの普及がそれを可能にしてしまった。
ただしそうなると、ビジネスモデルも根本的な変革が求められる。色々なパターンにおいてお弁当売りをどのようにビジネスにしていくのか、その例で考えると案外正解にたどり着けるかもしれない。
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