リアルだと意外と通用する話として、「自分は死なないからコロナは怖くない」という人に対して庄司智春さんは退院後も胸の痛みが治まらないこと、爆笑問題の田中さんは退院後も嗅覚が戻らないこと、と有名人の後遺症の話をすると「えっ!?」となることが多いです。皆さん意外と知らないんです。
— ざらめ煎 (@zarame_senbee) September 25, 2020
リアルの茶番勢はネットの茶番勢に比べて、何となくの雰囲気で流されてる人が多くいます。だからコロナ関連の情報をかき集めてる人からしたら常識の範囲内の情報を知らなかったりします。それとなく言ってあげると結構びっくりされます。
— ざらめ煎 (@zarame_senbee) September 25, 2020
ネットの情報も結局は多分がリアルな場からすくい上げたものに過ぎず、そしてネットは単なる情報の伝達と蓄積の手段でしかないのだけど(方向性とか使い方はまったく違うけど、性質的には新聞や雑誌などの紙媒体に近い)、ネットに親しんでいる人とそうでない人との間の情報格差は、ネットを普段使いしている人には想像がし難いほど大きなものがある。実際、法事などで親戚筋の人と話をしていると、そのギャップが痛いほど分かる。脳内でスクリーンが映し出されてリプライでソース付きのツッコミをしたくなるような言及が、次から次へと出てくる。よほどのことが無い限り、実行動には移さないけど。
「何となくの雰囲気」という表現は非常に優れていて、元々一方的に送られてくる情報を受け止め......というよりは流れに逆らわずに身をゆだねて楽しむというスタイルだから、何となくとか、イメージ的なものしか認識しない、記憶に残らない。だから派手な演出や大げさな表現を使ったり、反復する形で何度となく繰り返し伝えられると、それが無意識のうちに刷り込まれてしまう。ぶっちゃけると、洗脳装置みたいなものだ。
恐らくこの性質、構造は昔からのものだったのだろう。けれど検証する、比較するものがなかったので、ほとんどの人はその問題を指摘しなかった、というよりは気が付きもしなかった。ネットの登場、普及によってはじめて、リアル...というよりは非ネットの情報(伝達様式は旧来のメディア)の特性がはっきりと認識できるようになった形。
物事をどのようにとらえるか、それは一人一人の自由ではあるのだけど。事実と異なることを事実として咀嚼してしまい、それを意思決定の材料に使ったり、他人に事実だと教えてしまう状況を見るに、やはり罪ではないのかなと思う次第ではある。
コメントする