若者たちが鬼滅のヒットで「みんなが同じモノを見て同じ話で盛り上がる状況」がとても新鮮で楽しいと話していて多様性の難しさを実感する - Togetter https://t.co/R91ZWGJh9E @togetter_jpより クラス内で前夜のテレビ番組の話をするとか、ドラクエがどこまで進んだとか、ジャンプの最新号の話とか。
— 不破雷蔵@ガベージニュース (@Fuwarin) October 30, 2020
あああ、分かるなあぁ。ドリフ、ひょうきん族。ベストテンにヒットスタジオ。ロス五輪の時はクラス中で盛り上がった。 https://t.co/7W0PZgHYpd
— A344A (@neoyoe) October 30, 2020
完全に忘れ去られたわけでもなければ、今件だけに限られた話でもないのだけど、指摘されてみると再認識できる類の話というか現象。多様性が評価賛美されて、皆が同じようなものに目を向けることがむしろ忌み嫌われるかのような雰囲気が生じたり、情報の過多な状況で好き嫌いが細分化されたりとかいうのが現状。情報化社会というと陳腐すぎるけど、結局はそんな感じ。歌謡界でヒット作と呼ばれるものが生み出されにくくなったりするのをはじめ、コンテンツ業界全体に言えること。全体のロングテイル化とか、二極化と表現すればいいのかな。
それが評価され推し進められていたのだから、当たり前といえばそれまでの話なんだけど、それを覆されてしまった感が強いのが、まさに「鬼滅の刃」。皆が皆、というわけではないけど、多数の人が同じテーマで語り合うことができ、共感を覚えることができる。ネット上のネタ話としてよくあがる「あるある話」を地でいくようなもの。きのこ派とたけのこ派なんてのも結局のところは、その共感遊びみたいなものだろう。
共感できるから「鬼滅の刃」がヒットしたのではなく、「鬼滅の刃」がヒットしたからこそ共感できるネタとして使えるようになり、そのヒット度合いが加速したと考えることができる。また、後ほど別途まとめ上げるけど、共通の話題としてスポットライトを浴びるようになった時点で作品がすべて終わっており(単行本化はまだ)、情報が収集しやすかったのも大きな要因ではないかなと思うのだな。
「多様性」とは無敵のフレーズのように見えるけど、実はそれで失われる大きな快楽もある。「鬼滅の刃」のヒットにはそれを改めて思い起こされるだけのものがあったと考えられるのだな。
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