手にしただけで、手元にあるだけで満足してしまう症候群

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もちろんこれはテレビ番組の内容そのものに魅力を覚えなくなってきたというのも一因ではあるのだろうけど。生放送でしか、リアルタイムでしかテレビを観ることが不可能、せいぜい音声をテープに録音したり、テレビの場面を切り貼りしたテレビ漫画的な集大成ものを手にしないと再度観賞できなかった時代では、テレビを観る注力度合いは今とは比較できないほどのものだったし、テレビ番組への熱意もけた違いだったはず(数字化は不可能だけど)。

けれど容易に録画ができて好きな時に何度でも再生して観賞したり、データ化したり、さらにはメディアとして購入したり動画配信で観ることができるようになった今では、かつての注力度合いで観るようなことはないはず。今見逃しても別の機会がある、後でまた見ればいいや、というセーフティが働いているからなんだろう。

いつでも見られるコンテンツとして手に入れる、あるいは環境を整備すると、その状態ができただけで満足してしまい、肝心の観賞そのものをしなくなってしまう。したとしても注力はどこかへ吹き飛んでしまい、流し読みしてしまう。

これって結局コンテンツにおける積読状態と同じなのかなと思ったりする。あるいはiPodなどへの音楽データの詰め込み問題。コンテンツそのものを楽しむことが目的だったはずが、そのコンテンツを楽しむ環境作りが楽しくなってしまい、整備されるとその状態の維持自身で満足してしまう。脳内ではコンテンツを楽しむ自分の姿を想像して疑似的な満足感を得られ、それで十分に堪能しきってしまう。それはそれで楽しみ方の一つなのだから、悪いという話ではないけれどね。

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このページは、不破雷蔵が2020年11月 8日 07:06に書いた記事です。

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